日記

20251003_ビターエンドは似合わない

日記

しばらくぶりです。

相変わらず無職のままで中々転職活動も捗らないですが、この時間をちょっとでも活かしたいと思い、今まで体験することのなかった映像作品、音楽、そしてVRに手を付けてみて、色々なことを感じていました。

新鮮なものです。未知の体験、作品への傾倒、見えない人への敬服。これらを通じて、自分はあまりに知らなさすぎることを改めて思いました。

恥に思う心は未だにありますが、それも悪くない感情であろうと、自然な反応だろうと、そう思い始めています。

こうやって、ハリボテの全能感を喪失していくことが、年を取るってことなんでしょうかね。

さて、色々な体験を経て、率直に感じたことが1つ。タイトルにあるように、『ビターエンドは似合わない』です。

物語にしろ、人生にしろ、山があれば谷もあります。それも渓谷のように深い奈落の底だったり。底のまま、渋く、淡く、苦い残り香を残して終わるストーリーって、余韻も凄く深いですよね。

そういった物語を魅力的に思うことは、決して悪いことではない。

バッドエンドでも、何かしらのメッセージを帯びています。

ノンフィクションでは、人類が忘れてはいけない普遍的な真理、気づきを思い出させてくれます。

でも、いつまでも余韻を味わっていると、どこへも進めなくなるような気がしているのです。

街灯のない隘路を、ひたすら迷っているような…。

現実と虚構の間を彷徨うような…。

死って思った以上に突然訪れる。

親戚や祖母の死に立ち会ったから分かる。

自分もいずれはそうなると。

 

でも、一度きりの人生、ビターエンドのままプツンと終わるのは悲しい。

 

死神はいつも隣にいるかもしれないけど、その鎌を振るのをもうちょっと待ってくれないか、と、切に願うこと。

それが礼拝に繋がったんだろうな。

走馬灯になったんだろうな。

三途の川が見えたんだろうな…。

正直、祈るだけの人生も大概ビターだよな、と今は感じますけど、僕の価値観は、これからほんのり苦みを帯びた哀切なものに変わるかもしれないから、祈りの声や文字も甘く感じる時が来るかもしれないですね。カルトはだめだけど。

幸いにも、呑気にVR出来る国に産まれることが出来た以上、僕もビターな現実を少しでも愛してみようと思いました。

甘く切なく、しかし旨味が凝縮して生きていきたいものですね。

ビターなまま、現世を、宇宙を、バーチャルを去るのは、もったいなさすぎる。全てにおいて。

世界は過酷を極めている。

ビターエンドは、誰も望んでいないのに。

甘い果実も、銃火器で撃ち抜いたら台無しだぜ。

tamuramaro

20250614, 0727_雑記

「そして、バトンは渡された」

 この本を手にしたのは、母が心を病んでふさぎ込んでしまった自分に対してのわずかばかりの贈り物を受け取った時でした。

本屋大賞を受賞し、映画化もされていたものですが、興味本位で本をじっと読むことが持たなくなっていた精神状態だったため、中々本腰を入れて手をとる時間がありませんでした。また、新しい職場について、得ないといけないスキルを身に着ける時間が増えたこともあり、余裕のない時分で、読書の習慣をつけることは、退職して時間が思いっきり余るまで出来ませんでした。言い訳にしてやろうともしてなかった、とも言えますね。いまさら考えても仕方ないかなと。

分厚い小説、上下巻の小説など家にぽつぽつとありますが、それは流石にリハビリとしてきつすぎる訳ですから、こうして文庫本で何とか読めるものをぱっと手に取ったと言えましょう。


上の文を書きかけていたのが6月14日だったようです。

放置して今に至ります。

色々登場人物がどうだとか、物語の展開はどうだとか書きなぐってはいたのですが、陳腐で拙い言葉でしか表現できない自分に腹が立ってしまい、かといって衝動的に一発書きしても、それが本当に自分が抱いた本書の感想なのか?と思うと、更新することをサボってしまいました。

正直、色々と疲れています。

待ってはくれないことがたくさんあります。

頑張らないとと思うたび、現実に打ちのめされます。

誰かを頼ってみても、どうもかみ合わない。

能力検査を受けるだけ受けてみたのですが、40の職種のうち35に適正があるそうです。

信じられないですよね、苦虫を嚙み潰しました。

うつ病の典型的な症状、『役に立つ人間たりえない』という思いは、10年以上発散できないままです。

何も努力していないと言われてもしょうがないくらい、人生サボり散らかしているものありますが。

かといって、独りは寂しいものです。

なので、こうして再び文字を打ち込んでいます。


僕は誰からバトンをもらい、誰に渡せるのでしょうね。

貰うことを拒否し続けた20代は、もう戻ってこない寂静のように思います。

自分は頑張っているつもりでも、それを無意味無価値と否定され、さらに頑張られると、やっぱり競争に負けたと思うものです。

頑張る気力がないのに頑張った結果、周りに迷惑もたくさんかけてしまいました。現在進行形かもしれませんね。得てして発生した私の病なのかもしれません。

ずっと鏡の自分と向き合ってきました。十分苦しんだのかもしれませんが、まだ足りないようにも思えます。

なぜなら、まだ生を終えたくないから。

生きたいと願う心は、風前の灯火ですが、ゆらゆらと燻っています。

それがある限り、私はもうちょっと苦しもうと思います。

もうちょっとが半世紀くらいだといいかもしれませんが、世間が許してくれるかな。

そんなことを思う、夏の夜です。

ここまで読んでくれた人に、ありがとう。

さよならは、まだまだ言うつもりは無いからね。

tamuramaro

 

20250531_雑記

善くあること

 今朝も今朝とて、読書をしに近くの公園のベンチに赴く途中、ゴミ拾いをしている男性を見かけた。

誰に言われるでもなく、淡々と近くのごみを拾い続けているその姿は、偽りなく善く生きる姿のように思った。

そう思いながらベンチの方向を見た時、チューハイの空き缶がベンチの両脇に無造作に置かれていた。

こういうことをするから、酒飲みがろくでなしに思われるんだぞ、と心の中でぼやきながら、コーヒーを傍らに読書をし、帰り際に、空き缶と周りのごみを拾った。

特に理由はなく、ただ、さっき見た男性のように善くあろうと思い、行動できたのは、「自然と」善くあれたように思う。

周りを気にするように善くあろうとするのは、自他ともに心を擦り減らす行いであろう。虚像はいつかぼろが出るものだから。

これからも、何の気なしに何かしら善いことを社会に還元していきたい。それが、僕にとって生きる意味になると信じないと、自我が溶けていく恐怖を覚えるのだ。杞憂だろうけども。


 ごみを拾う美化活動をする男性もいれば、平気でごみを置いていく、それでいてこの町は綺麗だなぁと倒錯したことを思う人もいるだろう。これは人間である以上仕方ないことだ。

一部の悪行が積み重なって、大事になってしまうことは、歴史が示している。

最近バルカン半島の複雑な歴史背景を調べていたので、如実に感じるところである。

物事は事実を、その場で起きていた事実を基にしたうえで、ヴィトゲンシュタインのいうところの、言葉の真偽に慎重になりながら、多角的に分析する必要がある。

1世紀前、サラエボの一発の銃弾から、地域の友愛と団結は無に帰した。根っこはここ、いやそれ以前からあったのだろう。

例えば、民族浄化という言葉があるが、思惑が渦巻く中、セルビアもクロアチアもボシュニャク人に対して実行していた。一方で、昨日まで友人だった他民族の死を悼むことについては、民族を超えたものがあった。民間人の慈愛と指導者の詭弁に振り回される絶望は私には計りえない。

NATOの空爆では、劣化ウラン弾が使用されたが、その健康的被害をWHOは認定していない。しかし、一概に疑似相関とは思えないほどの癌患者が、空爆された町で出現している。戦争を指導した悪人は少数の過激派と、それにそそのかされた政治家・軍人・支持者であろう。それに対してはあまりにも重い正義の鉄槌のだったのではと思う。

ベオグラードでも何度もデモがあった。情報統制の中でも真実を伝えようとする人間がいた。しかし、それを知る人は少ない。私もその一人だった。

何かを知る際は、知った事実から生えている無数の枝葉についても知る必要がある。切り落とすべき嘘偽りを切ること、枯れかけている真実を大切に拾い上げることを、訓練することが、情報であふれかえる昨今を生きていくうえで大事なことなのだろうと思う。

読書をしながら、こんな大それたことを思ったりする。浅学非才ゆえ、目の前の物語から考えがぶれるのもまた、人間臭くて、悪い気はしない。

tamuramaro

 

20250524_雑記

はじめに

こんにちは。こんばんはの人はこんばんは。

気付いたら年明け半年たちそうですね。いままでネタはいくらでもあったんですけど、結局書くことへのアクセルを踏めずに今までたってしまいました。

というのも――本当にいろいろありました。大きな出来事で言えば「失職」です。小さなことは数えきれないほどありますが、今回は割愛するわ。

無職になりました

 去る四月末、契約打ち切りにより前職をやめることになってしまいました。自分の体調や仕事に対する姿勢にも原因があったと思いますが、もっとやれたよなとか、こうすればよかったとか、やるせない気持ちになるものです。残念ですが、力不足だったということで。

現実は受け入れるしかないので、失業保険の手続きや健康保険の切り替えなど、使える制度をフル活用しながら各所に足を運びました。結果、燃え尽きたように無気力になり、就職活動にも手がつかなくなってしまいました。

 

自分に合った仕事ってなんだろう?

「幸せを感じられる仕事」「やっていてしっくりくる仕事」って何だろう――そんなことを、今ようやく本気で考えるようになりました。

IT業界でエージェントを通して活動していたものの、書類選考でほとんど落とされ、面接に進めた数少ない機会でも、緊張でうまく話せなかったり、「なぜこの会社を選んだのか」に自分でも納得できる答えが出せなかったり…。何を言っても嘘くさく聞こえるんですよね。

「もしかしてIT向いてないのかも?」と感じる一方で、持っている資格やスキルはITに偏っているというジレンマ。

そもそも、自分には「能力」と言えるものがあるのか?――そんな問いを、考えたくなくても考えざるを得ない。アイマスクで視覚を遮って内面に潜ったり、ぼんやり時間を潰したりする日々が続いています。

 

自分に何ができるんだろう?

何か小さなことでも、人の役に立ちたい。でも、それで人生を満たされたと感じられるのか。

やりたいことを実現するには、何かを犠牲にしなきゃいけないのか?避けられないのか?

人は生きている限り悩み苦しむものだと思います。でも、その苦しさとどう折り合いをつけるかは人それぞれで、僕は不器用なほうだと自覚しています。対面の場面で、それがにじみ出てしまっているのかもしれません。特に面接なんかでは。

だからこそ、どれだけ大変でも、終わったあとに「笑える仕事」と出会いたいと思っています。そのために、相談所、就労支援、職業訓練校など、いろんな手段に頼ることも大事なんじゃないかと。

借金もなく、一人で趣味に散財できる程度に豊かな生活を目指すにはどうすればいいのか。少し真剣に考えていこうと思います。

ほんと、「生きる」って難しいですね。

 

話は変わりまして

 思い切って電子ピアノを買いました。中古じゃなくて新品。安さより、マイセルフな物を得たい派です。見栄っ張りなんです。買ってからというもの、好きな時に好きなだけ弾いてます。新しい曲を練習するのは結構しんどいですけど、ブルグミュラーの25曲あたりで運指の癖を改善していければと思ってます。昔は貴婦人の乗馬も弾けたのですが、今ではさっぱりです。やるっきゃないですね。

また、音楽をじっくりと聴くことが多くなりました。ジャンルに関しては本当に雑食で、クラシックからハードコアまでランダムにかけますが、アイマスクをして聴覚に集中することが増えました。そんなことしてるから寝落ちするんですけど。

最近の推しは『NOMELON NOLEMON』です。寝ぼけた時にたまたまブックマークしていたのが縁です。記憶の無い曲、何か琴線に触れたのかしらと思って再度かけたのが「SAYONARA MAYBE」。

最初のパッセージで電流走りました。いいアーティストとの出会いは、こういうところからなのかも。他の曲もどこか懐かしくもありつつ、尖ったグルーヴを感じられて好みです。記事の最下部にSpotifyのリンク置いときますね。

さいごに

 無職にはなったけれど、いい意味で心境に大きな変化はありません。ただ、「これからどうするか」を考えると落ち込みます。

自分探しって、ほんと難しい。人生はクソゲ。でもリセットはできません。だからこそ、とりあえずスタートボタンを押して、右スティックでも上スティックでもいいから、少しずつ前に進もうと思います。

もちろん、操作を止めることはあるかもしれない。でも、リセットや電源OFFだけはしない。それだけは、しない。

自分をあきらめたくないから。

tamuramaro

20241231_年の瀬に寄せて

TL;DR

 2024年はモチベーションや体力の低下で厳しい一年でしたが、少しずつ精神的な安定を取り戻しつつあります。

 来年は「資格取得」を目標に掲げ、禅の教え「只管打坐」の精神で日々の感謝を大切にしながら前進したいと考えています。2025年は試練の年になる予感がしますが、少しでも多くのハッピーを周囲に届ける努力をしていきます。

 


 

年の瀬に寄せて

 2024年も残すところあとわずかとなりました。今年を振り返ると、モチベーションや体力の低下が続き、フル勤務が難しくなり、それに伴い給料も大幅に下がりました。退職の可能性も頭をよぎるほど、なかなか厳しい一年でした。それでも、9月にどん底を迎えたことが転機となり、少しずつではありますが、精神的な安定を取り戻しつつあります。

来年の目標

 来年の目標として、「何か一つ資格を取る」ことを掲げたいと思います。

正直に言えば、勉強やリスキリングに対する苦手意識はあります。しかし、もうそんなことも言っていられない年齢になったのだと自覚しています。

だからこそ、真剣に学び、理解し、それを実務に活かしていくことで、自分自身の可能性を広げていけたらと考えています。

精神的な課題との向き合い方

 精神面については、依然として健康とは言い難い状態です。

ただ、自分自身が障害者であることを受け入れ、割り切ることで少し気持ちが軽くなることもあります。しょうがないことはしょうがない。

それでも、大人として生きる以上、自分なりの道筋を立てていかなければなりません。職を失えば生活が立ち行かなくなり、楽しみを持つ余裕もなくなってしまいます。親に頼れる時間にも限りがありますから、どこかで自立した形を築く必要があります。

座右の銘:「只管打坐」

 これからの人生において、私が座右の銘としたいのは「只管打坐(しかんたざ)」という言葉です。

これは禅の修行で使われる言葉ですが、必ずしも座禅を組むわけではありません。むしろ、日々のありふれた出来事に感謝し、その感謝を裏切らないよう精進するという姿勢を生活に取り入れていきたいのです。

世の中にはネガティブな出来事が溢れています。私自身も、他人の会話がすべて自分の悪口に聞こえるという卑屈な耳を持っています。これは本当に辛いことです。

しかし、自分の周りを少しでもハッピーにしていく努力をすることで、世の中の見え方も「思ったより悪くない」と感じられるようになるのではないでしょうか。禅の特集を見て、そんな気持ちになりました。

模範的な修行には程遠くとも、思いを行動に変えることで、形となり実を結ぶのではないかと思います。

2025年に向けて

 2025年は、2024年よりも試練の多い年になる予感がしています。そんな中でも、少しでも多くのハッピーを周りの人、会社、社会、そして世界に向けて発信していけたらと思っています。この抱負を胸に、今年の締めくくりとさせていただきます。

来年も、その時々の気持ちを大切にしながら執筆を続けていければと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

tamuramaro

20241117_現代のメディアリテラシーの重要性

はじめに

 今日、某選挙の結果を受けて、多くの人々が喜びや失望を感じていることでしょう。

実はこの記事を書く前に、もっと明るい話題を前置きにするつもりだったのですが、気がつくとそれを忘れてしまい、少し寂しい気持ちを抱えたまま書き進めています。

それでも、この選挙結果を受けて私自身が抱くのは、深い危機感です。この感情の根源には、いくつかの問題があります。それは、メディアに対する不信感の増幅と、メディアリテラシーの欠如に起因するものです。ここで改めて、これらの課題を考えてみたいと思います。


メディアへの不信感の増幅

 まず指摘したいのは、メディアに対する不信感の増幅です。選挙報道や政治に関する報道をめぐり、私たちはすでに偏向や誇張が蔓延している現状を目の当たりにしてきました。

このことが、報道に対する信頼を損なう一因となっています。しかしながら、注意しなければならないのは、こうした不信感が逆に拡散される様子です。

SNSなどで「メディアは信じられない」と声を上げる人々がいますが、皮肉にもその手法自体が、メディアが行う宣伝活動と同じ構造を持っているのです。

その結果、多くの人がメディアに対して過剰な疑念を抱き、その疑念をさらに拡散する状況が生まれています。これはまさに、私たちが批判しているメディアと同様の「宣伝の拡散」という行為であり、自己矛盾と言えるでしょう。

この問題に気づかないことは、情報を正しく理解しようとする努力を阻害する重大な過失であると感じます。

情報の取捨選択とメディアリテラシー

 次に考えるべきは、メディアリテラシーの重要性です。

現代社会では、ファクトチェックがますます難しくなってきています。インターネットやSNSの普及により、情報は瞬時に拡散され、誰もが発信者となれる時代です。しかし、その反面、情報の正確性を見極める力が求められる時代でもあります。

特にSNSで拡散される情報源に対しては、冷静な目を持つべきです。SNSは誰もが自由に意見を発信できる場ですが、専門家でない人間が過剰に喧伝する情報には留意しなければなりません。

最近の傾向として、自分に都合の良い情報だけを集め、信じ、さらには他者に広めていく姿勢が目立ちます。これでは、情報の正確性や信頼性を損なうばかりか、偏見が拡大してしまいます。

情報を取捨選択する際には、自分の意見に都合が良いかどうかだけで判断するのではなく、ファクトチェックを行うことが不可欠です。これは私自身も含め、常に意識しなければならない課題です。

盲目的な正義の危険性

 最後に考えたいのは、強大な力に対抗する正義を盲信する危険性です。

現代社会では、多くの人々が「正義」を掲げて声を上げますが、その行動が実は盲目的である場合も少なくありません。盲信の果てに、自らが批判している「大いなる陰謀側」に立ってしまうリスクさえあるのです。

自分が信じる「正義」が本当に正しいのか、偏りなく検証することが求められています。


まとめ

 選挙の結果がどうであれ、私たちはこの状況を冷静に受け止め、メディアとの関わり方や情報の取捨選択について真剣に考える必要があります。

不信感をただ拡散するのではなく、情報を正しく理解し、冷静に検証する力を磨くことが、より良い社会を築く一歩となるでしょう。

tamuramaro

20241112_言葉・文章について思うこと

 昨今、「市井の読解力が低下している」という言葉を耳にする機会が増えています。SNSをはじめとするインターネット上では、大量の情報が溢れています。しかし、いくら識字ができても、短い言葉すら曲解する人々が増えていると感じます。これは、ただの勘違いにとどまらず、言葉を武器として攻撃する場面を生むことにもつながり、辟易することもしばしばです。

私が特に気になるのは、このような「余裕のない人々」が言葉を自分の都合の良いように捻じ曲げることです。本来、言葉とはコミュニケーションのための手段であり、他者との意見交換や理解を深めるためのものです。しかし、自分の思い通りに解釈をねじ曲げるような行為は、言葉そのものに対する冒涜であると言えます。言葉の中に込められた本来の意味が無視され、曲解され、時には攻撃の手段として利用される状況に、私たちはどこかで距離を置くべきではないでしょうか。

たとえば、歴史の中で問答無用で行われた暴力を考えると、言葉が届かないことの悲劇が鮮明になります。話し合いができる人間であれば、犬養毅を問答無用で撃つような行為は避けられたはずです。言葉が失われ、無意味になった瞬間、そこには対話ではなく暴力が生まれる。これは過去の話に留まらず、今の時代にも通じる問題です。

技術や富、食糧など、人類はここ一世紀で目覚ましい進歩を遂げました。しかし、言葉の力が衰えているように感じるのはどうしてでしょうか。人間同士の心の通い合いや、相互理解のために使われていたはずの言葉が、むしろ退化しているように見えるのは皮肉です。

私は、この言葉の退化が、人間の進歩の中で捨てられてしまうようなものでないことを願っています。言葉にはまだ希望があり、私たちがその力を取り戻すための努力をすべきではないでしょうか。理解し合い、対話を深めるために、もう一度言葉の重みを見つめ直すことが必要なのだと思います。

tamuramaro

20241027_国政選挙について思うこと

 

注意:以下は個人の所感です。ご参考までに。賛否両論があることも承知しています。


国政選挙に投票しました

本日、国政選挙の投票に行ってきました。ここでは、その所感を記してみたいと思います。


選挙に対するやるせなさ

 政治のかじ取りが非常に難しいものであることは承知していますが、選挙になると、実現できそうもない理想ばかりが声高に語られるのはいつものことです。そのために少なくない税金が使われることに、正直なところ違和感を覚えます。選挙は、国民の意思を問う大事なものですが、それを無駄遣いするものにしてはいけないはずです。結局、消去法で「まだ現実的なことを言っている候補」を探すのが一般国民のやるべきことなのでしょうか。もっと良い見極め方があればと思うものの、思うようにはいかない…ここにやるせなさを感じます。ちなみに、僕は白紙で投票しませんでした。どうにか一人、選んできました。


政治とカネの問題は解決するのか

 「政治とカネ」の問題は、政治が始まって以来ずっと続いているものです。これが解決されるとは思えません。むしろ、この問題を簡単に解決できると言う人こそ信用できません。資産家や影響力のある団体が裏から手を回して、直接票を投じることなく政治家を操るというのも想像に難くないものです。結局のところ、権力や富が支配する構造は変わらず、独裁的・金権的な要素が色濃く残るのが現実です。これはディストピアさながらで、正義からは程遠い現状でしょう。あらゆる政党に何らかの支援団体が付いている以上、清廉潔白な政治家がいるかどうかも疑わしいところです。果たして本当にいるのでしょうか。


実現不可能な理想や偏った思想を語るのは控えてほしい

 僕は自分をリアリストだと自覚しているので、理想ばかりを語る政治には懐疑的です。私たちの国は理想郷ではありませんし、税金をゼロにしたり、話し合いだけで全てを解決するのも非現実的です。自国の歴史観を強引に押し通せば、他国との摩擦も生まれるでしょう。また、偏った思想に基づく暴力的な正義も無分別です。理想だけを掲げる候補者には、達成のためのプロセスが見えず、当選することだけが目的であるように感じます。国会での法案が実際に具体的成果を上げているかも不透明な今、理想と現実のバランス感覚を持った候補が少ないことに歯がゆさを感じます。


最高裁判事の審査について

 正直なところ「やる意味あるのかな?」と思いつつも、調べた上で一部の判事には×を付けました。こうした審査に少しでも関心を持てること自体が大切かもしれません。最高裁判事まで上り詰めた方々ですから、多少の×があっても強い信念を曲げることはないでしょうが、それでも信を問うことは必要です。


最後に

 ここまで読んでいただいた方は、さまざまな感想を抱かれたかもしれません。もし何かを感じたなら、ぜひ選挙に行って投票しましょう。余裕があれば、立候補するのも手かもしれません。これこそが、国民に与えられた政治的な権力行使です。投票しなければ現役世代の意見も反映されにくくなりますから。

tamuramaro

20241024_自己理解の旅と感情の受容

この世というものは、かなり無情なものです。最近は特に、名前を思い出すのにも苦労したり、考えたことがふと思い浮かんだかと思うと、霧のように消えていく。そんなことが多くなってきました。何か言いたいことがあっても、頭の中で整理しているうちに、いつの間にか忘れてしまう。そんな感覚があります。

老いていく中でも、頭が冴える瞬間があります。それは、トイレに籠っているときです。特に家で用を足していると、哲学的な思考に陥ることがあります。ときには誰かに話しかけるように、また何かを伝えようと独り言を言うこともあります。自分の思考が収斂されていく、そんな感覚を覚えるのです。

ところが、用を足し終えて部屋に戻ると、さっきまで冴えていた思考はどこかへ飛んでいってしまいます。それでも、不思議とすっきりした気持ちになります。用を足したからなのか、思考を整理し終えたからなのか、その両方なのかもしれません。考えすぎる癖がある僕にとって、トイレでの「哲学」は、ひとつの大切な儀式のようなものです。

たとえ役に立つかどうか分からない思考でも、そのプロセスは僕を構成する一部だと思います。この世というものが夢か現実か、時折わからなくなることがありますが、これは今に始まったことではなく、僕の性質なのでしょう。

何が本当で、誰が本当の自分なのか、曖昧になるときがあります。それから、耳が良いのか悪いのか分かりませんが、他人の何気ないセリフが自分に向けられているように感じてしまうことがあります。それで勝手にひどく傷つくことが多いのです。これも昔からです。そうしているうちに、僕の感情は、激情を吐き出すものではなく、霧に包まれて曖昧になっているような気がします。なぜなら、自分をさらけ出すことで、周りを不快にさせたり、疎外されたりすることがあると感じているからです。人の醜い部分に敏感になってしまうのです。たった一言、他人の何気ない発言であっても、自分に直接関係のないことでも。

それでも、こうした感情や思考も僕を構成する一つの要素です。無理に否定することは、むしろ自分を苦しめることになるでしょう。

だからこそ、最近はこの気難しい自分を少し肯定しても良いのではないか、と思うようになりました。以上、大部分を音声認識で入力してみました。これなら思ったことも言えるでしょう(笑)

タイトルは、AIに付けてもらいました。詞的ですね。人間のようです。人間が創ったから当然といえば当然ですかね。

tamuramaro

20241022_野球

NPBプレーオフ

DeNAの下剋上を見ていました。6戦すべてとても素晴らしい内容だったと思います。巨人も追い詰められてから2つ返したところは流石でしたね。日本シリーズは最強軍団vs下剋上の構図になりましたね。特に大ファンというチームは無いので、いい試合になることを願っています。

 

メジャーリーグに対する報道について思ったこと

まず大前提として、大谷翔平選手が素晴らしい選手であることに異論はありません。彼の活躍は、日本人として誇りに思いますし、世界中の野球ファンが彼のプレーに感動しているのは周知の事実です。彼は超一流の選手であり、その才能や努力に疑いの余地はありません。

しかしながら、最近のスポーツメディアにおける「大谷びいき」には、少しモヤモヤを感じることが増えてきました。特に、対パドレス戦の報道では、その偏向ぶりが目立ちました。もちろん、大谷選手がいるチームが日本人にとって特別視されるのは理解できますが、相手チームにもリスペクトを持って報道してほしいというのが正直な感想です。

特に今回、相手チームであるパドレスには日本人選手も在籍していました。日本人選手同士の対決は日本のファンにとっても注目ポイントの一つです。しかし、メディアはほとんど大谷選手にフォーカスしすぎて、相手チームの日本人選手や彼らのプレーがあまり取り上げられなかったように感じました。これには少し残念な気持ちになりました。

もちろん、大谷選手が主役であることは理解できますし、彼の一挙一動が注目されるのも当然です。しかし、スポーツには対戦相手がいてこそ成り立つものであり、特に日本人同士の対戦であれば、両選手への敬意やリスペクトを持った報道があってもいいのではないかと思います。選手一人だけを持ち上げることが、他の選手や対戦そのものの魅力を損なうことになりかねないのではないでしょうか。

スポーツメディアが視聴者に与える影響は大きいです。大谷選手だけでなく、他の選手や相手チームの努力や魅力も伝えることで、もっと多面的な視点で野球の素晴らしさを楽しめるような報道を期待しています。

一野球観戦ファンとして、こういった視点も大切にしてほしいと思いました。

tamuramaro