善くあること
今朝も今朝とて、読書をしに近くの公園のベンチに赴く途中、ゴミ拾いをしている男性を見かけた。
誰に言われるでもなく、淡々と近くのごみを拾い続けているその姿は、偽りなく善く生きる姿のように思った。
そう思いながらベンチの方向を見た時、チューハイの空き缶がベンチの両脇に無造作に置かれていた。
こういうことをするから、酒飲みがろくでなしに思われるんだぞ、と心の中でぼやきながら、コーヒーを傍らに読書をし、帰り際に、空き缶と周りのごみを拾った。
特に理由はなく、ただ、さっき見た男性のように善くあろうと思い、行動できたのは、「自然と」善くあれたように思う。
周りを気にするように善くあろうとするのは、自他ともに心を擦り減らす行いであろう。虚像はいつかぼろが出るものだから。
これからも、何の気なしに何かしら善いことを社会に還元していきたい。それが、僕にとって生きる意味になると信じないと、自我が溶けていく恐怖を覚えるのだ。杞憂だろうけども。
ごみを拾う美化活動をする男性もいれば、平気でごみを置いていく、それでいてこの町は綺麗だなぁと倒錯したことを思う人もいるだろう。これは人間である以上仕方ないことだ。
一部の悪行が積み重なって、大事になってしまうことは、歴史が示している。
最近バルカン半島の複雑な歴史背景を調べていたので、如実に感じるところである。
物事は事実を、その場で起きていた事実を基にしたうえで、ヴィトゲンシュタインのいうところの、言葉の真偽に慎重になりながら、多角的に分析する必要がある。
1世紀前、サラエボの一発の銃弾から、地域の友愛と団結は無に帰した。根っこはここ、いやそれ以前からあったのだろう。
例えば、民族浄化という言葉があるが、思惑が渦巻く中、セルビアもクロアチアもボシュニャク人に対して実行していた。一方で、昨日まで友人だった他民族の死を悼むことについては、民族を超えたものがあった。民間人の慈愛と指導者の詭弁に振り回される絶望は私には計りえない。
NATOの空爆では、劣化ウラン弾が使用されたが、その健康的被害をWHOは認定していない。しかし、一概に疑似相関とは思えないほどの癌患者が、空爆された町で出現している。戦争を指導した悪人は少数の過激派と、それにそそのかされた政治家・軍人・支持者であろう。それに対してはあまりにも重い正義の鉄槌のだったのではと思う。
ベオグラードでも何度もデモがあった。情報統制の中でも真実を伝えようとする人間がいた。しかし、それを知る人は少ない。私もその一人だった。
何かを知る際は、知った事実から生えている無数の枝葉についても知る必要がある。切り落とすべき嘘偽りを切ること、枯れかけている真実を大切に拾い上げることを、訓練することが、情報であふれかえる昨今を生きていくうえで大事なことなのだろうと思う。
読書をしながら、こんな大それたことを思ったりする。浅学非才ゆえ、目の前の物語から考えがぶれるのもまた、人間臭くて、悪い気はしない。
tamuramaro