この世というものは、かなり無情なものです。最近は特に、名前を思い出すのにも苦労したり、考えたことがふと思い浮かんだかと思うと、霧のように消えていく。そんなことが多くなってきました。何か言いたいことがあっても、頭の中で整理しているうちに、いつの間にか忘れてしまう。そんな感覚があります。
老いていく中でも、頭が冴える瞬間があります。それは、トイレに籠っているときです。特に家で用を足していると、哲学的な思考に陥ることがあります。ときには誰かに話しかけるように、また何かを伝えようと独り言を言うこともあります。自分の思考が収斂されていく、そんな感覚を覚えるのです。
ところが、用を足し終えて部屋に戻ると、さっきまで冴えていた思考はどこかへ飛んでいってしまいます。それでも、不思議とすっきりした気持ちになります。用を足したからなのか、思考を整理し終えたからなのか、その両方なのかもしれません。考えすぎる癖がある僕にとって、トイレでの「哲学」は、ひとつの大切な儀式のようなものです。
たとえ役に立つかどうか分からない思考でも、そのプロセスは僕を構成する一部だと思います。この世というものが夢か現実か、時折わからなくなることがありますが、これは今に始まったことではなく、僕の性質なのでしょう。
何が本当で、誰が本当の自分なのか、曖昧になるときがあります。それから、耳が良いのか悪いのか分かりませんが、他人の何気ないセリフが自分に向けられているように感じてしまうことがあります。それで勝手にひどく傷つくことが多いのです。これも昔からです。そうしているうちに、僕の感情は、激情を吐き出すものではなく、霧に包まれて曖昧になっているような気がします。なぜなら、自分をさらけ出すことで、周りを不快にさせたり、疎外されたりすることがあると感じているからです。人の醜い部分に敏感になってしまうのです。たった一言、他人の何気ない発言であっても、自分に直接関係のないことでも。
それでも、こうした感情や思考も僕を構成する一つの要素です。無理に否定することは、むしろ自分を苦しめることになるでしょう。
だからこそ、最近はこの気難しい自分を少し肯定しても良いのではないか、と思うようになりました。以上、大部分を音声認識で入力してみました。これなら思ったことも言えるでしょう(笑)
タイトルは、AIに付けてもらいました。詞的ですね。人間のようです。人間が創ったから当然といえば当然ですかね。
tamuramaro